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2006.11.04 Deserves to Win.
え~ひさしぶりにやってまいりました。1ヵ月ちょいぶりかな。Things About Sports であります。今回も長々と書くと思われますが、みなさん、どうぞ最後までよろしくお願いいたします。


スポーツの世界には当然のことながら勝利と敗北が存在します。まあいくつかのスポーツの世界では引き分けという形もありますが。今回はスポーツの世界における「勝利」というものにまつわることについて個人的な意見を書いていこうと思います。
僕はスポーツ観戦(TV観戦)が好きでかれこれもう十数年にもわたってかなり真剣に(笑)観戦をし続けているのですが、長い勝負の最中に、たまに感じることがあります。それは「勝利に値するもの」と「勝利に値しないもの」という両者が存在するということです。スポーツは常に体力的にも精神的にも全力を尽くしてこそのものだと思っているので(ましてプロならなおさら)、「勝利に値しないもの」などという言葉はあまり使いたくはないのですが、確かにそう思わざるを得ない姿がTVに映ってしまう時があるのです。
スポーツでの勝負というものは基本的にはどちらがより「勝利に値する」かで決まるものです。たとえ負けたとしても勝利への執念と呼ばれるようなちょっとした精神的な差であったり、技術の差であったり、ちょっとしたミスとかで決まるものです。それは多くの場合、敗者が「勝利に値しなかった」のではなく、勝者の方がより「勝利に値した」だけのものなのではないかな。言い換えるならば、「敗者の美学」みたいなものでしょうか。少し違った意味合いが含まれてしまいますかね…。(まあスポーツ界ではこんなことはないです。実際は、敗者は忘れられるのみ…。) 敗者でも自分の持てる全ての力を出して負けたならば観ている側からすればこの言葉が当てはまるかもしれないですね。
それでは、「勝利に値しないもの」とは何か?それはずばり選手のほんの些細な行動や言動だと思うのです。これをやったから勝てなかった、これを言ったから勝てなかった、と観ている側が思ってしまうような行動や言動のことです。かなりわかりづらいので、ここからは具体的な例を挙げていきますね。

日本のプロ野球の阪神対横浜戦(甲子園球場)で数年前こういう試合がありました。8回裏2死走者なし、2-1のスコアで阪神がリードしている場面でした。打席には阪神の捕手・矢野。ここで矢野は大きなホームラン性の当たりをバックスクリーン近くに打ったのです。しかし、その日はあいにく甲子園特有のハマ風が逆風だったため、打球は途中で勢いを殺されフェンスぎりぎりで捕球されアウトになってしまったのです。問題だと思ったのは次のシーンでした。普段なら楽々とホームランになるはずだった打球でアウトになった矢野は2塁付近を回った辺りで頭を抱えて、誰の目にもわかるように悔しがったのです(一瞬横浜が一点リードしていたんだっけと思うほどだった)。結局試合はその後阪神が追いつかれ、延長12回引き分けで終了。
では問題のシーンについて―。一点差の緊迫した試合で貴重な追加点を上げれずに終わり悔しがることはわかります。そして投手の女房役でもあり、投手の負担を少しでも和らげたかったであろう矢野が人一倍悔しがるということもわかります。だがしかし、捕手というポジションであるからこそあそこは悔しさを全面に出してはいけない場面だったと思うのです。なぜか?次に出てくる投手への信頼関係の問題です。矢野本人はそんなことは全く頭になかったかもしれない。また次に出てきた久保田(当時クローザーになりかけ)は矢野のその姿を見なかったかもしれない。信頼関係にはなんの問題や影響はなかったかもしれない。しかし、チームスポーツにはチームのムードというものがあります。阪神には何の影響はなくとも、矢野のとった行動によって、横浜が追いつけるぞというムードを強めたという可能性も大いにあるのです。何がどう影響して9回土壇場で阪神が追いつかれ、その後試合が引き分けに終わったのかはわからないですが、8回裏の球場の監督と呼ばれるポジションにつく矢野がとった行動は軽率だったと思えてならないわけであります。
その他にも、2004年のスーパーボウルXXXIX、ペイトリオッツ対イーグルス。ペイトリオッツ3点リード、第4Qの中盤から終盤にかかる頃、まだ勝負はどっちにも転ぶ段階でイーグルスQBマクナブがサイドラインであきらめにも似た表情を浮かべてうなだれていたシーン(実際にはシーズン中からずっと体のいたるところの小さなケガに悩まされ、それが痛んだため、うなだれていたとのこと)。その後巡ってきた攻撃チャンスで何もできず敗戦。(のちにチームメイトだったWRオーウェンズはこのことを批判している。) 1989年の日本シリーズの巨人対近鉄。最初の3戦を全勝した近鉄の選手が第3戦終了後に「レギュラーシーズンの方がつらかったです」といった内容のコメントをインタビューで残したこと。その言葉に奮起した巨人がその後4連勝。最近では第1回ワールド・ベースボール・クラシックの2次リーグの韓国対日本戦、韓国が勝利した後ウィニング・ランをしたこと。W杯ドイツ大会決勝のジダンの頭突き(なんかこの記事に似たことを長々と書いてます 7/10参照)。などなど他にもたくさんあります。

ここで挙げた「勝利に値しないもの」の例はいずれも些細な行動や言動で、言ってみれば直接勝負の行方には関係のなさそうなものばかりです。しかしこれらが勝負に全く影響がなかったかというと疑問に思えます。もちろん必ずしもそうなるとは言えないですが、少なくとも上の例では影響したと言えるのではないでしょうか。苦しい時に苦しいという姿を戦っているフィールドで見せることや、戦う相手を尊重しないということで、勝負の行方は大きく変わってしまうと思うのです。また、これらは勝利への真摯な姿勢(勝利への集中力みたいなもの)があれば―些細なことではあっても―決してとらない行動や言動と言えるのでは。こうした行動、言動をとってしまったがゆえに彼らが「勝利に値しない」者だったと感じてしまったのであります。


またまた偉そうに書いてしまいましたが、うまく伝えることができたかどうかは全く自信がありません。わかりづらいですよね…。TVで観ていてこれじゃ勝てないよと思ったシーンについて書いてみました。イコール「勝利に値しないもの」になったわけでございます。まあ「勝者」にはこういった勝利に値しない行動や言動っていうのは見られないことは確かです。って無理矢理まとめてみました(雑)。できれば自分もそうでありたいです(元?スポーツマン)。最後まで読んで下さった方々、本当にお疲れ様でしたそしてありがとうございます。それではまた。
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2006.09.23 Being PROFESSIONAL.
今日は数多くいる野球のプロフェッショナル・プレーヤーの中で、これまた数多くいる「プロフェッショナル」と呼ぶにふさわしい3選手について書こうかな。ひさしぶりの Things About Sports であります。そもそもこの Things About Sports はなんだろ、コラムみたいなもんなのかな。ではでは、プロフェッショナルな選手について。

現在のプロ野球界(メジャーも含む)の中で一体どれだけの選手が「プロフェッショナル」という言葉を意識して野球をしているだろうか。そしてどれだけの選手が「プロフェッショナル」というものに徹し切れているだろう。僕の知っている限り、そう多くはいないと思う。が、ここで言っているのは「プロフェッショナル」に徹している選手であって、「プロフェッショナル」を意識している選手は数多くいる(願わくば全員であってほしいと)とも思う。そんな数少ない「プロフェッショナル」に徹している選手の中で今日は、イチロー、金本知憲、松井秀喜の3選手について書いていこう。
日本には心技体という言葉がある。上記の選手達はその三つの要素全てが持ち合わせているからこそ、現在超一流と呼べる地位にいるのではないだろうか。ではどんな面がいわゆる「プロフェッショナル」なものなのか。
イチローで言えば数字。プロとは結果が全ての世界である。結果が全ての世界では何が一番評価されるか?チームで言えば勝利以外の何ものでもないが、個人で言えば数字こそ全てともいえる(特に野球では)。だからこそイチローはその数字に全てをかけているともいっていいほどこだわる姿勢を見せているのだ。その数字に執拗なまでにこだわる姿勢は時として観ている者、チームメイトなどに一見周りを気にしない、冷たい選手として映ることもあるだろう。しかし、数字を残すことで周囲の信頼を得ることが「プロフェッショナル」であると考えるイチローにとっては当然のことなのだ。結果で示すことに全神経を注ぐことは「プロフェッショナル」として当たり前のことで、それをやらず、結果も残せない選手になることだけは許せないことなのだろう。だから当然チームメイトにも同じ事を要求しているのだろう。もっとも声に出してはっきりと言うことは今までにも一度もないが、近年ではマリナーズの成績不振と共にそれをほのめかすこともしばしば見られる。数字以外でもイチローは「プロフェッショナル」に徹している面がいくつもある。それは試合前、球場に誰より早くかけつけ、準備運動を欠かさずすることからも見られる。もはやベテランともいえる選手、ましてメジャーリーグでもMVPや首位打者を獲っているイチローがだ。実績のある選手でこういった行動を取っている選手は他にはいないだろう。イチローの戦いは他のどの選手より早く始まっている。そしてこういった姿勢がイチローをイチローたらしめているのだ。
金本知憲の場合は試合という舞台に対する準備の姿勢。金本はつい最近連続フルイニング出場記録が1000試合を超えた選手。この記録は言葉では言い表せないくらいの大偉業だ。そしてこの記録は30を超えてから生まれた記録だと言うのだから尚更のことである。鉄人・金本は体が動く限り試合という戦場へ必ず味方を助けるために足を運んでいるのだ。数年前には、頭部への死球や左手首を骨折しながらもプレーを続けたことがある。まさに体の動く限りといえるだろう。「プロフェッショナル」である以上、小さなケガや違和感でファンの待つスタジアムでの試合に出ないことは許されないと考える金本の心意気は「プロ・アスリート」としての根本的な部分とも言えるだろう。プロだけとはいわず、自分の体の管理は自分でやるものだ。プロである以上(若ければ尚更だが)自分の体の異常や異変に敏感になるのは大事なことである。だが、「体が資本」のプロの世界で(特に最近よく見られる)多少のケガであるにもかかわらず休みますというのは大きな疑問に思える。先にも述べた通り、自己管理が行き届いていれば自分の体は自分が一番よく理解しているはず。ならば、今日はどうしても無理だ、これくらいなら行けるなどの判断は自ら下せるのも当然とも言えるだろう。そしてその体をケガのしないものにするのも「プロフェッショナル」の必須条件だ。金本は強靭な肉体を作ること、言ってみれば表舞台に立つ前の準備(体作り)に「プロフェッショナル」としての誇りをかけているのだろう。
そして最後に松井秀喜。松井は金本によく似ている部分がある。今年の春の骨折で連続試合出場の記録は1768で途絶えてしまったが、松井も毎試合、試合に出ることに大きな意味を感じている選手である。松井の場合、こんなことを言うと失礼だろうが、金本やイチローより、いや今や日本で一番人気のある選手であるのは事実。何よりもファンや子供達に夢を与えることが「プロフェッショナル」としての自分の使命と考えている部分が大きいのである。松井を観に、楽しみにしてスタジアムに来る子供達に自分のプレーしている姿を見せることが松井のようなスーパースターの持つ特別な使命なのだ。連続試合出場という記録は―遠征の多い、移動距離の多いメジャーで毎試合出場する選手はリーグを通じて5本の指で数えれるくらいのものなのだから ― 高いプロ意識から生まれたといえるだろう。その他にも実はあまり知られていないが、松井はいろんな方面での慈善活動や寄付活動にも力を注いでいる。野球はもちろんのこと、球場以外のフィールドでも夢を与えることこそ「プロフェッショナル」という使命感を強く持っている松井は間違いなく多くの人々に夢を与えている。一選手としてだけでなく、常にスターとしての自覚を持ちながら行動をとる松井、公私にわたってこれほど「プロフェッショナル」に徹し切れている選手は他にはあまりいないだろう。

さて、またまた長くなってしまった…が、いつものことなんで許してくんなまし。このようにこの3選手は多少異なってはいるかもしれないが、それぞれ「プロフェッショナル」に徹しているといえるでしょう。先にも述べたように3選手に共通するのは心技体を兼ね備えていることだ。そのどれかが欠けていれば「プロフェッショナル」に徹しているとは言えないだろう。もしかすると、このように「プロフェッショナル」に徹することができているかできていないかが「一流」と「超一流」とを分ける境界線になっているのかもしれない。
サッカーW杯のイタリア対オーストラリア戦は観ていて思ったこと。審判がヘタだなぁと。今大会を通して審判のミス、誤審については騒がれている。イエローカードの数も12試合を残しながらも大会史上最多になったらしい。今大会からはフエの後の再開を遅らせる行為についてはかなり厳しくなっている。結構厳しい判断も多少見られはするものの、僕には妥当だと思う判断も多い。なんせ今までが選手に自由に(無法地帯のように)遅延行為などに対してはやらせ過ぎな感があったから。とはいえ、ITA - AUS戦ではそれ以外の審判によるミスジャッジが多かったと思えた。それも試合の行方を左右するような大きなミスが。イタリア選手の退場の場面と、試合終了間際のPKの場面、あれは両方ミスジャッジではなかっただろうか。少なくとも退場の場面では一発退場に値するような悪質かつ故意的なものでは全くなかったのだから。
現在のサッカーには誤審は付き物、いや憑き物と言ってもいいだろう。サッカーだけに限らず、オリンピックや他の世界大会などでも最近は誤審が目立つ。世界最高の舞台で、世界最高のパフォーマンスで戦っている選手、そんな中でたった一つでも誤審があれば全ての結果が変わってしまうこともありえるのである。舞台、選手に見合った審判、「ジャッジ」を揃えることはそんなに難しいことなのだろうか。もっと人数を増やすなり、ビデオ技術を使うなりの処置をどうしてIOCやFIFAなどが取らないのか不思議に思う。言うほど(処置を取るのは)簡単ではないのかもしれない、しかし茶の間で寝っ転がってTVを観ている人の方が正しい判断をできてしまうというのはどうしても理解できない点である。W杯のような世界的な大会が開かれると、いつも全体的にもっと質の高い審判団を揃えてほしいと思ってしまうのである。
2006.05.17 The Greatest Player
Things About Sports 第二弾!
今回は、誰がザ・グレイテスト・プレーヤーか?について語ろうかなと思います。
なぁに、簡単な話。バスケじゃマイケル・ジョーダン。サッカーじゃペレ。野球じゃベーブ・ルース。レスリングじゃカレリン。相撲では大鵬。Etc…。
100人に聞いたら90人はそう答えるんじゃないかな。僕もそう答えるし。スポーツの世界では十年に一人とか、二十年に一人とかいう割合で素晴らしい選手が現れるけど、やっぱり上に書いた選手を超える選手って言われる可能性はほとんどないに等しいのでは。それだけMJやペレ、ルースといった選手たちは突出した実績であったり、記録であったり、いろんな面で人々の記憶に残っているからだろう。
何年か前に海外の新聞だったか雑誌だったかは忘れたけど、現在まで活躍してきた多くのサッカー選手の中で誰が史上最高の選手だったか?についてしっかりと調査をして発表して結構ヨーロッパあたりでは騒がれたことがあった。(当時朝日か読売をとっていた家の新聞にもしっかり取り上げられていた。)結果はフランスのジダンがサッカー史上最高のプレーヤーとして選ばれてた。今またその調査をすればまた違う結果になる可能性は高いだろうけど、その当時ならそれで合ってるんじゃないかなと思う。現在同じ調査をすればおそらくブラジルのロナウジーニョになるんじゃないかな。たぶんペレと比べても劣る面は少ないのでは。ただこういった調査なんかは決してすべきではないよね。絶対に。現代の選手と過去の選手を比べたら現代の選手の方が調査の対象となる人々への印象が強いのは目に見えてるし、実際にもう引退した選手からすれば失礼極まりない話だよね。証明する術はないのだから。
だけど僕は、純粋に誰が史上最高の選手(The Best Player)か?と聞かれたら、今現在世界の中で最高の評価をされる選手が史上最高の選手だと言い切ってもいいと思う。それはなぜか。現在いろんなスポーツで、最高峰の舞台(プロ)で活躍している選手たちは、過去の史上最高と呼ばれる選手達を「見る」ことが出来たから。勉強することが出来たから。おそらくスポーツをやったことのある人なら一度はそのスポーツで活躍しているスター達のプレーを真似したことがあるだろう。(大抵の場合今までこんなプレー見たことない!っていうものではないかな?)「見たことのないもの」を体験する、体感すること。そういったことの積み重ねで上手くなっていく。いい例があるからこそまたその一段階上へいける。つまり多くの子供たち、プロの卵たち、現役のプロの選手にすらにいい「例」を体験させる、体感させることになる。それはプロの世界でやる選手たちの実力の底上げにも繋がっていると思うのね。(かなり強引な持っていき方ですが)こうやってスポーツはその競技のレベル自体が上がっていってると僕は思うんです。
だから日々レベルが上がっている競技の世界で誰が史上最高か?と聞かれれば今現在最高といわれている選手だと僕は思う。でもThe Greatest PlayerとThe Best Playerはやっぱり違うものであって、必ずしも同一人物ではないよね。スポーツは1番を目指すものとはいえ、できればスポーツの世界を(まあスポーツに限らず)史上最高という言葉で時代の違う選手たちを比べてほしくはないものだよね。ってあんま比べない?か。引退して半世紀くらい経っても史上最高と呼ばれていて初めてザ・グレイテスト・プレーヤーと呼んでいいのではないかな。少なくとも最初に書いた5人の選手達はそれに値するよね。

かなり偉そうだなぁ
我ながらわかりづらい文章だったとは思いますが、我慢して最後まで読んでくださった方、どうもです
2006.05.02 Things About Sports
この度このブログを作成したにあたって、特に何かをモーレツに伝えたい!訴えたい!と切に思っているわけではないのですが、やるからには読んで下さった方が、へぇ~。とか何熱く語ってんだか。とかなんかしらの感想を抱いてくれればいいなと思ってます。
~は筋書きのないドラマだ。という言葉をたまに聞くことがある。大抵の場合それは野球であったり、某TV局のプロジェクトほにゃららとかの中ではないかな。この言葉を聞いた時に僕が一番最初に思い浮かべるのはスポーツである。スポーツこそ筋書きがなく、スポーツこそドラマである。これが長年(といっても10数年)スポーツ鑑賞をし、自身もスポーツを続けてきて感じたことだ。とはいってもスポーツやってればなんでもドラマ!なわけでは当然なく、何年も何べんも続けてやってきた中で、そのバックグラウンドを知った上で、おっ。こりゃドラマだ!と直感的に感じるわけであります。もっと単純に言えば感動的であったり、運命的なものを感じたときなのかな。
数多くあるプロスポーツ界では、「ドラマ」をよく観ることができる。それは逆転サヨナラホームランであったり、オリンピックの金メダルであったりする。プロだけに限らずアマチュアでもよくある。例えれば高校野球では1球1球に「ドラマ」が隠されているでしょう。見ている側からすればなんてことのない1つの動作でも、それをやっている者、それを支えてきた者からすればかけがえのないドラマであったりもするのだから。どんな些細なことにもドラマは隠されている。まあここまで言っちゃうと人生そのものもドラマだよね(笑)。
ここで言いたかったのは、第三者いわば全く関係のない者にまで感動を与える、筋書きのない「ドラマ」を観せてくれるのがスポーツでしょ!ということです。プロアスリートは「ドラマ」を作る仕事といっても過言ではないのでは。(もちろん人にみせることだけがプロではないけども)。ルールの存在という公平な世界の中で、観ている人々に感動を与えることのできる唯一のものがスポーツなのではないかな。 と初回から熱く語りましたが、僕が思うスポーツのよさについてこれからもちょくちょく書かせていただきますね。
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